娘の高校受験

いよいよ娘の高校受験を真剣に考えなければならない追い込みの時期がやってきました。
 
ノー天気な親子は、どーせ勉強なんてしないんだし、できないんだし、地元優先の名前書けたら入れる学校でいいんじゃねぇ?
 
と、わたしは学校にこだわりなく、担任が勧めて「入れてくれるところ」でいいと思ってましたが、
娘は当時、憧れの先輩が行った高校に行きたい!とか言ってましたね。
 
でも、やっぱり自分の実力では無理!と悟ったのか?あっさりあきらめてしまいました。(笑)
 
そして、しばらくすると担任に教えてもらったのでしょうね、きっと。
 
娘は目を輝かせながら
「母さん、わたし、ここに行く!!」
「勉強嫌いやし、わたし、ここで3年間、三味線弾いて遊ぶ!」と、
やっと自分が真剣になれる学校を見つけたらしく、
 
でも行きたい学校の科が、「芸能文化科」で、できたてほやほやの科だったらしく、
担任曰く、正確なデータがないので、朱美の成績では”120%落ちる”だろうけど、
仮に落ちても立ち直りの早い朱美なら大丈夫!
と、言うことで受験の許可をもらったようでした。
 
さぁー、朱美お嬢さん、
3年間三味線弾いて遊ぶ為に、
本人曰く、この時ばかりは「死ぬほど勉強」してた?そうです。(笑)
 
夏休みには大学生の家庭教師も付いてくれ、勉強を教えてくれてましたが、
なぜかまた、この家庭教師が凄いガリ勉先生だったようで、
朱美に勉強を教えつつ、横で自分も必死で分厚い本をみながら勉強をしていたそうです。(笑)
 
この時、朱美は、
大学生って大変だなぁ、あんなに勉強しないといけないのか・・・
だったら、わたしは大学は行かなくてもいいや、、、
と想ったと話してくれてました。
 
中学の担任の先生、家庭教師の先生、一番どきどきしたのは本人だったでしょうけど、
 
受験が終わり、合格発表を見に行った時、
 
神頼みもして、
お父さんに頼んで何度も高校を見に行き
自分がそこに通うイメージを築き、
 
ビリから何番目かは知りませんが(笑)、
とにかく滑り込みセーフ!で芸能文化科に合格を果たし、担任や家庭教師の先生を驚かせていました。
先生達は本気で「落ちる」と思っていたらしく、なんて励ましたらいいか…と思い悩んでいたそうです。(苦笑)
 
まだ高校受験が終わってない同級生も沢山いたので、そんな中、進学先が決まった娘は卒業までルンルンで過ごしていました。
いや、よくやった。
おめでとう!あーちゃん。

娘の「うんこ掃除係になりたい!」という純粋な夢

娘の「うんこ掃除係(飼育係)になりたい!」という純粋な夢をぶち壊した(笑)、
なんとも「悪どい母」には、

娘がもうひとつの夢を持っていることを知っていました。

それは、「女優になりたい」、大阪にある俳優養成学校に通いたいという夢でした。

でも、ソロバンの塾代もままならない母子家庭には、
俳優養成学校の入学金や授業料は、とても手が出せるものではありませんでした。

そんな生活ぶりでしたが、ひっそりと親子ふたりで肩を寄せ合いながら、

九州から大阪にきて6年が過ぎようとしていました。


美容師としての仕事も、落ち着き、生活も安定してきていました。

ちょうどその頃、わたしに見合い話が舞い込んできました。

勤め先の「先生の友達」を紹介するということでした。
それが今の夫、マスターでした。

娘の、夫への第一印象は、日焼けして、パーマをあてた「チビクロサンボみたいな人」でした。(笑)

 

わたしの結婚には、決して強い反対はしませんでしたが、
「母親の結婚」の意義、理由、みたいなものを見いだせずにいたようです。

 

娘の言い分は、
『ずっと今まで、ふたりでやってきたのに、なんで今更再婚する必要があるん??
別に、これからも、ふたりでいいンじゃねぇ?』

と、いう意見でした。

 

確かに朱美の言うとおり。
なんで今更・・・という気持ちもわからないわけではなかったけど、
正直、わたしは大人の話相手、相談相手が欲しかったのです。

 

そうこうしている間に、
娘は当時の担任の先生に「母の再婚」について相談していたようです。

担任の先生は、「よかったじゃない、おめでとう!」と祝福してくれたようですが、
娘はそこではなく、「母親が老いても旦那さんが見てくれる」という言葉に、なるほどと結婚を納得したようでした。(ソコか!笑)

 

娘から再婚のOKサインが出たのをきっかけに、
母が再婚すると、こんないいことがあるよ、あんないいことがあるよ、と、

いままで何もしてあげられなかったことを、メイいっぱいしてあげるようになりました。 

小学六年生の夏休み、子供だけを集めたハワイ行きの短期留学を皮切りに、
大阪にある俳優養成学校にも通わせるようになりました。

ECC英会話学校にも通わせるようになりました。
ピアノも3日坊主でしたが通わせてみました。
学習塾にも通えるようにしました。
でも塾には行かず、月謝を使い込んで遊んでました。(爆)

 

母子家庭を経験された方なら理解していただけると思いますが、子供に
寂しい思いをさせていた分どれだけのお金を注いでも惜しいとは思いませんでしたね。 


多少、ひっちゃかめっちゃかな所もありましたが、
休日は枚方パークに遊びに行ったり、花博にも行ったりしたよね。

そして、中学に上がる時をきっかけに、婚姻届けを出しました。

娘は名前が変わるのを嫌がっていましたが、それもすぐに慣れて、
将来の夢は、ごく普通に、「女優になる!!」と言い放ち・・・

 

俳優養成学校からは、主役とは程遠い、「ロバの足」役をもらってきては(笑)
学校の先生やクラスメートにチケットを買って貰っていました。
(先生、皆さん、その節は本当にありがとうございました;感謝!)

今振り返ってみても、

中学時代も結構幸せな学生生活を送っていたのではないか、とおもいます。

 

大きな変化があったのは、娘が中学2年の時、弟が生まれました。
14才も離れているので、兄弟というより、ほとんど親代わりでしたね。

 

弟をとても可愛がり、髪の毛を結んでみたり、ミルクをあげ、おむつも替えたりしてくれていました。
わたしが勤めに行くようになると、娘のほうが学校から帰ってくるのが早かったので、 

セーラー服のまま、保育所へ弟を迎えに行ってくれてました。

 

やさしい、優しい、とってもいいお姉ちゃんでしたが、
セーラー服のまま乳母車を押して歩くのは、ヤクルトのおばさんからジロジロ見られて嫌だわ!
とか、

学校帰り、みんな遊んでるのに、わたしは「お迎え」があるから遊べない!!

わたしの青春かえせぇ~~!!

とか、

ヘンな喜び?の声をあげておりました。(笑)
ありがとうやったね、

あーちゃん。

わたしの娘

わたしは娘を19才の時(6月1日14時6分)に、
九州の児湯郡川南町の北産婦人科で産みました。
 
生まれたばかりの時、
髪の毛が産毛のはずなのに、総立ちで、帽子を被せないと
産毛がねることはありませんでした。
 
親戚のどなたかが、「この子は気の強い子になるよ!」と
おっしゃっていましたが、その頃はまさか今のように変に強くなるとは
想像もつきませんでした。
 
名前は夫が字画の本を見て、朱美と名付けました。
可愛い名前で、みんな、あーちゃん、あーちゃん、と言って可愛がりました。
 
わたしは初めての子育てで、どのように育てたら良いのかもよく判らないまま、
でも、はしかや水疱瘡と人並みの病気にはかかったものの、大病もせず、
義父母が初孫ということもあり、とても可愛がり、大切にしてくれました。
 
同じく、わたしの大阪の両親も初孫と言うこともあり、普段の衣服から、
雛人形や、七五三の着物、ブランコやおもちゃなど、いろんなものを
送って初孫あーちゃんに愛情を注いでくれました。
 
当時、夫は24才、わたしは19才、まだまだ大人になりきれない若い二人が
周りの大人達に助けられながら、ままごとのような生活を送っておりました。
 
そんな中、建築関係の仕事をしていた夫は「飲みに行って仕事を貰うもの」と、言い、
 
夫の言うことを鵜呑みにしていたら、いつの間にか夫は、
キャバレーのホステスと一緒に暮らすようになり、次弟に家に帰ってこなくなりました。
 
 
自分は一生懸命しているのに、何が間違っていて、何が正しいのかがわからなくなり、
生きるための指標が欲しいと思って悩んでいた時に、エホバの証人と出会い、聖書を生きる指針とし、貪るように学び、没頭し、その世界に入って行きました。
 
しかし、夫はそんな宗教をするなら、お金はやらん!と、
逆に朱美とふたりの生活費さえも入れなくなりました。
でも、「神が朱美とわたしを守ってくださる」と、深い信仰を持っていたので、
当時は朱美がまだ眠っている早朝4時に出かけ、新聞配達をし、
一旦帰宅した後に、ほか弁の早朝仕込みのバイトにいきました。
 
短時間のバイト代はわずかでしたが、
義父母がお米や野菜、お肉などはよく持ってきてくれたので、普段の食べ物に困ることはありませんでした。
とはいえ、甘いチョコレートが食べたくなって、よく机や棚の引き出しを開けては小銭を探していたのを今も思い出します。(涙)
 
そんな生活を九州で6~7年過ごした頃、朱美ももうすぐ小学生になる、
という時に、夫の彼女が妊娠したのをきっかけに、
夫から、お前が2号になればいいんや、と言われ・・・
 
時が同じ頃、大阪の幼馴染達が、いつも電話の向こうで泣いているわたしを見かねて、
「朱美を連れて大阪に戻っておいで、もうすぐ小学校なんやから」と、
「朱美の面倒は自分達も見るから!」と言ってくれ、
 
もう、これ以上、夫の帰りを待っててもダメだな…、と悟り、
 
そのまま友人達の言葉に甘えて、大阪に帰る決意(離婚の意志)を固めました。
 
そして朱美は、夏休み、冬休みと、ことあるごとにわたしの幼馴染達の家に泊まり歩き、海へ山へと楽しそうに休日を満喫しておりました。
学校参観も、わたしが出向くより、幼馴染達が来てくれるほうが嬉しく楽しかった様子でした。(複雑でした。)
 
朱美の伸びのびした小学校時代、といえば聞こえはいいですが、
ほとんど野放しの状態の山猿化した朱美は、山や川でカエルやトカゲをとってきては遊び、そういえば、カメもペットにいたね。
どこでみつけてくるのかはわからないけど、猫や犬を拾ってきては自分の部屋の押入れにいれて無断で飼ってみたり、、、
 
将来は、「動物園の飼育係になりたい!」と、小学生の夢を熱く語るので、
そっかぁ、「うんこ掃除係になりたいのか~?」と、ふざけていったら・・・
 
「母さんは私の夢を壊した~!」
と真剣に嘆いておりました。
 
かわいかったね、あーちゃん。
あの頃は。(苦笑)

孫ではなく、ひ孫を引き寄せてしまったわ。(爆)

気づいたら夏!(笑)
きゅうりとナスビとトマト、夏のお野菜3点セットをプランタンに植えて、
きゅうりは毎日収穫できてよかったけど、
ナスビとトマトがまだ収穫できていません。
早く食べたい!

もうすぐだ!待ち遠しいとまと。
百合の花は、お店に飾れるほど沢山咲いてくれています。
ゲストハウス古民家のKICダイヤモンドアート展示場の裏庭にも切り花収穫のため白い百合が沢山植わっています。
 

ゲストハウス兼ダイヤモンドアート展示

 

ちょっとした、植物ブームというか、
マイブームに花が入り込んできたので、自分の部屋にも可愛い蘭ちゃんを置きました。
小さな衝動買いをしましたが、日々可愛かわいいと癒されています。(・∀・)

奥から蘭ちゃん、姫ちゃん、アート
最近、30過ぎた息子に、孫はまだか~と孫の督促をしていたら(爆)、
な、な、なんと、長女の息子、つまりわたしからみたら初孫ですが、
その孫から連絡が入り、「かぁかぁ、俺(22才)、子供うまれるねん。」
 
「かあかぁも、おっきいとうちゃんも、俺にとったら身内やから、
孫の顔をみせたいねん。」と、お祝いの督促があった。(笑)
 
あははは。
孫ではなく、ひ孫を引き寄せてしまったわ。(爆)
 
 
で、嫁さんは?と聞くと17才、だとか。
じゅうなな?犯罪ちゃうんか?
と内心おもいつつも、若いなぁー。若すぎるよなぁー。
 
でも、嫁さんの親がいろいろ助けてくれているそうなので、それだけが救いだよね。
よかった。よかった。
 
それにしても、アフリカから連れ帰った黒人を夫にして養い、
著作権違反のアートで荒稼ぎしたお金で、新車?いい車買って、
「いい人に見られたい」だけで、いくらでも金を出すザルスポンサー
花梨が準備してくれた家から、さらに大きな家に引越しして、
羽振りもめっちゃ良さそうだけど、
 
せめて俺にも結婚祝いの、家具の一つでも買って欲しかったなぁ。。。
と、悲しそうに呟いていたのが、とても印象的で、哀れに思えてしまった。
 
まあね。
ママだって黒人の旦那に経済力が少しでもあれば、我が息子の結婚祝いくらい、
何らかの形で祝ってあげたいとは想っているだろうけど、、、
 
と、思いたいけどね。
 
うーん。
いや、それももう今は無いかもなぁ。
もう、昔のママとは全然違うからね。
 
 

ゲストハウス、いよいよ工事に入ります。

12月は丸っこ1ヶ月ちょっと、風邪ひいてダウン。

わたし自身は、12月はほとんどまともに仕事できてなかったけど、

ふと気づくと、

わたし一人が抜けてもお店は全然大丈夫だったので(苦笑)、

「もう、わたしが抜けてもお店は大丈夫やね~」と言うと、

「えぇぇぇ~ めっちゃしんどかったですよー!!!」

と、まだ抜けたらあかん!と言いたいらしい新リーダー。(笑)、

入社してきた頃からすると、ホント続くかな?と心配したこともあったけど、

ありがたいことに、今じゃお店1件まるっこ任せても大丈夫なほどに成長してくれているね。ホントありがたい。感謝だね。

 

そして、1月はいよいよゲストハウスの工事が始まる。

12月は工務店の社長も普段の仕事に加えて消防団の活動で忙しかったり、年明けは飲み会があったりで、吉野の村興しリーダーは年中無休で飛び回っているイメージ。w

外は雪(12月23日の「吉野店舗」前駐車場)

どのみち12月はどこの雪国?

ってほど吉野は寒かったし、写真のような日もあったので、焦らず、春までになんとかしようと、のんびり進めることにしていた。

完成は、自分たちも含め、協力的要素はもう集まっているし、後はいいタイミングで自分の経験の元に流れてくるからね。簡単にね。

楽しみです!(・∀・)

 

 

 

 

 

 

 

12月のご褒美 世界一幸せで豊かな私たち。

12月31日、

2022年最後の日なのに、まだ咳が止まらず、ゴンゴンしてる。

でも食欲は平常に戻っているし、カンデオホテルに泊まった日からは、

かなり元気になっている。

八木駅前のイルミネーション

韓国人のお店だと思うけど、予約なしで初めて行った焼肉屋さん。

愛想よしで味も美味しい。リピ有り焼肉ショップをまたしても見つけてしまった。w

予約なし。初めてのお店に入ってみました。

夫は生ビールを飲んで上機嫌でした。

カンデオホテルは息子が言うほどには「広い」とは思わなかったが、すっきりとシンプルで綺麗なお部屋でした。お風呂も10階でゆったりしている。

露天はこの時期は寒かったけど、開放感に溢れている。

朝食は和洋入り混じっている感じがしたが、朝の6時くらいに行けば

ビシッと全商品が並んだ状態をみれただろうと創造する。

わたし達は混雑時の時間帯に行ったので、オードブルが歯抜け状態であったが、すぐに次々と新しいメニューが並べられていた。

夫はごはんと味噌汁と卵焼きと和食を選んでいたが、わたしはクロワッサン2つとフレッシュジュースを2杯のみサラダやウインナー、卵焼きなどをたらふく食べたw

特別目新しいものが並んだワケではないけれど、おいしかったよ。

カンデオホテルでの朝食

ホテルは11時まで滞在することができたが、体内時計が正常なのか?10時には出た。

 

ホテルから吉野まで30分。

一旦戻って猫たちの様子をみて、あとは双方安心したのか、

猫も人間もいつもの動きに自然に戻って行きました。

 

頑張った自分達の為にご褒美。

風邪ひいて、本調子ではなかったとしても、とても豊かで恵まれていて、

幸せなひとときを過ごすことができました。

 

次は勉強がてら、どこか近場のゲストハウスに

ターゲットを絞ってみようかな。(・∀・)

風邪とともに・・・あーしんど。

今日は12月21日。

なんと12月に入ってもう20日もすぎてしまった。

マスターの風邪がうってしまって、わたしももう2週間以上もダウンしている。

なかなか、風邪で2週間もダウンすることなどないのに、今回はかなりきつい。

コロナでないだけマシとはいいつつも、まあ、しんどいことにはかわりないし。

とにかく、ヘロヘロになりながらも今月もよく頑張った!

なので、前々から行きたかったホテルだけど、今年の自分へのご褒美に、28日、29日と予約をとって、のんびり温泉に浸かってくることにした。

まあ、ミィー子とヒメ子には1泊だけなので、おとなしくお留守番しててもらおう。

猫を飼っている人の宿命だよね。とうでができないのは。

 

でも、まあ、

咳をゴンゴンやりながら、いまから楽しみだな。今のこの状況、ちょっと滑稽だけど。