わたしの娘

わたしは娘を19才の時(6月1日14時6分)に、
九州の児湯郡川南町の北産婦人科で産みました。
 
生まれたばかりの時、
髪の毛が産毛のはずなのに、総立ちで、帽子を被せないと
産毛がねることはありませんでした。
 
親戚のどなたかが、「この子は気の強い子になるよ!」と
おっしゃっていましたが、その頃はまさか今のように変に強くなるとは
想像もつきませんでした。
 
名前は夫が字画の本を見て、朱美と名付けました。
可愛い名前で、みんな、あーちゃん、あーちゃん、と言って可愛がりました。
 
わたしは初めての子育てで、どのように育てたら良いのかもよく判らないまま、
でも、はしかや水疱瘡と人並みの病気にはかかったものの、大病もせず、
義父母が初孫ということもあり、とても可愛がり、大切にしてくれました。
 
同じく、わたしの大阪の両親も初孫と言うこともあり、普段の衣服から、
雛人形や、七五三の着物、ブランコやおもちゃなど、いろんなものを
送って初孫あーちゃんに愛情を注いでくれました。
 
当時、夫は24才、わたしは19才、まだまだ大人になりきれない若い二人が
周りの大人達に助けられながら、ままごとのような生活を送っておりました。
 
そんな中、建築関係の仕事をしていた夫は「飲みに行って仕事を貰うもの」と、言い、
 
夫の言うことを鵜呑みにしていたら、いつの間にか夫は、
キャバレーのホステスと一緒に暮らすようになり、次弟に家に帰ってこなくなりました。
 
 
自分は一生懸命しているのに、何が間違っていて、何が正しいのかがわからなくなり、
生きるための指標が欲しいと思って悩んでいた時に、エホバの証人と出会い、聖書を生きる指針とし、貪るように学び、没頭し、その世界に入って行きました。
 
しかし、夫はそんな宗教をするなら、お金はやらん!と、
逆に朱美とふたりの生活費さえも入れなくなりました。
でも、「神が朱美とわたしを守ってくださる」と、深い信仰を持っていたので、
当時は朱美がまだ眠っている早朝4時に出かけ、新聞配達をし、
一旦帰宅した後に、ほか弁の早朝仕込みのバイトにいきました。
 
短時間のバイト代はわずかでしたが、
義父母がお米や野菜、お肉などはよく持ってきてくれたので、普段の食べ物に困ることはありませんでした。
とはいえ、甘いチョコレートが食べたくなって、よく机や棚の引き出しを開けては小銭を探していたのを今も思い出します。(涙)
 
そんな生活を九州で6~7年過ごした頃、朱美ももうすぐ小学生になる、
という時に、夫の彼女が妊娠したのをきっかけに、
夫から、お前が2号になればいいんや、と言われ・・・
 
時が同じ頃、大阪の幼馴染達が、いつも電話の向こうで泣いているわたしを見かねて、
「朱美を連れて大阪に戻っておいで、もうすぐ小学校なんやから」と、
「朱美の面倒は自分達も見るから!」と言ってくれ、
 
もう、これ以上、夫の帰りを待っててもダメだな…、と悟り、
 
そのまま友人達の言葉に甘えて、大阪に帰る決意(離婚の意志)を固めました。
 
そして朱美は、夏休み、冬休みと、ことあるごとにわたしの幼馴染達の家に泊まり歩き、海へ山へと楽しそうに休日を満喫しておりました。
学校参観も、わたしが出向くより、幼馴染達が来てくれるほうが嬉しく楽しかった様子でした。(複雑でした。)
 
朱美の伸びのびした小学校時代、といえば聞こえはいいですが、
ほとんど野放しの状態の山猿化した朱美は、山や川でカエルやトカゲをとってきては遊び、そういえば、カメもペットにいたね。
どこでみつけてくるのかはわからないけど、猫や犬を拾ってきては自分の部屋の押入れにいれて無断で飼ってみたり、、、
 
将来は、「動物園の飼育係になりたい!」と、小学生の夢を熱く語るので、
そっかぁ、「うんこ掃除係になりたいのか~?」と、ふざけていったら・・・
 
「母さんは私の夢を壊した~!」
と真剣に嘆いておりました。
 
かわいかったね、あーちゃん。
あの頃は。(苦笑)